もりわじん絵日記 2004. 9
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9月25日 (土)  [987] 再頭髪

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 晴、雨、晴、雨、晴
ほらみろ!
昨日、頭から毛が生えた。今まで、ない髪を上手い具合にハゲではないように、単に短いスポーツ狩りに見せようと、てっぺんは長めに横と後ろは短かめにバリカンで刈っていたが、このところだんだんてっぺんが生えにくくなってまばらになってきた。そんなハゲが恥ずかしくて恥ずかしくて一度は手首を切ろうとしたが、痛いので止めて、作品作りに専念しているようなことをいって外にも出ず自閉症していた。が、もういいやと、この間丸坊主にした。そして昨日、死ななくなったもんだから髪が再生し始めたようだ。
最初はキラキラ輝いて、ハゲがずいぶんテカルようになったのかなと思っていたが、不思議なことにみるみるうちに毛が生えて、二日めの今日、立派な頭髪になった。ア〜ありがたいことだ。しかし、なんで金髪なのだろう?再頭髪は前回とは違う色になるように出来ているのだろうか?たぶんそういう決まりなのだろう。似合うか似合わないかは別にして、ずいぶんと新鮮であの十代の髪フサフサの時代に返ったようで、清清しい。でも、慣れないので、つかつかして痒い。それに暑いわ。いったいなんでだろうなどという疑問もあるだろうが、不思議などというものはこの世にない。無いからなんでも不思議だ。普通に髪の毛が生えることだって摩訶不思議。髪の毛にいろんな色があるのだって不思議。ちじれっ毛も不思議。剛毛も不思議。ハゲも不思議。再生金髪も不思議。みな不思議に変わりは無い。あれも不思議。これも不思議。なんでも不思議。
不思議とは、思考の議論をしない事、思考する一歩手前の純粋な感覚だ。
ア〜不思議って心地いいわ、ふさふさして‥


9月24日 (金)  [986] 愛は永遠

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 雨
昨日死なない気がしたわけは、これは『死』というわけ分からん恐怖のような迷い事のような観念が、どうでもいいとなったから。生きいててもいいや、死んでもいいや。ニコニコ笑って生きて、ニコニコ笑ってあの世にいく。となれば、生も死も昼と夜のちょいと大きなものみたいなものだ。昼や夜に怯え苦しむのもアホらしいだろう。死なないとは生と死の境界もあやふやで生死の比較がない状態だ。これは、『死』に対する諸々の負の思考が消えたということだ。
大体、自殺するやつというのは簡単にいうと生きるのが嫌だから。死の観念に捕われていると生に執着したり、逆に死に執着したりバランスが悪い。そうなると快楽に逃げ食うデブ・やるチンマン・うつ罪人になる。
つまり、生死を二つに分けなければ、ニコニコ平安死なないになる。世の中、陰陽で成り立っていて何事にも反対があり二つに分けられている。だから分けないということが分かりにくい。尚のこと生死を極めにくい、悟りにくい。心理的にはほんとは二つに分断されるなんて事はない。分断しているのは思考という後天的な言葉の蓄積だ。思考は分断して陰陽をせめぎあわせることによって成長するから、挙げ句の果てに戦争を作る。戦争するような国や人は、大抵国が二つに分断していたり、その人の頭が二つに分断していたりする。でも自然というのは一つになりたいというものが自然と働くようにできている。一つになりたい、一体化したい。それが愛だ。つまり、心理的に分断がないところに愛があり、そこには執着するような生も死もない。死がなければ死なないわけだ。愛は永遠だ、とはこのことをいう。これが陰陽ひっくるめた太極なるものだ。ぶっとい極みなわけだ。


9月23日 (木)  [985] 死なない

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 曇り、ちょい寒い。
今朝は枯れ葉掃除しないもんね〜。しばらくする気ないもんね〜。下水に枯れ葉が溜まるまでやらないもんね〜だ。
あの庭一面青々していた季節も過ぎ、葉っぱも瑞々しさは失せ茶色や黄色になって散る。人もそうなって散る。諸行無常だ。自然の流れッちゅうことだ。落ちてきた枯れ葉を嫌うのは、老いゆく自分を嫌うようなものだ。人は間違いなくみんな老いて終いには死ぬ。これこそ間違いない真実だ。これをおいて他に、こんな明確な真実はない。真実を嫌ってどうする。嫌って暗い気持ちのまま、これから先を生きるのは病気の元だ。そうなるのが真実ならそれを受け止め、枯れ葉でいっぱいの秋を楽しもうではないか‥
ワシ、隣の親父が猫嫌いということで塀を作り、うちの猫が車社会の犠牲になり死んだんでフェンスを立て網を張り、今度は枯れ葉が嫌だと云われ世間体を止める。仕事面では飲んべえにからまれるから招き猫の集いは遠慮する。どんどん世間から追いやられている。まったく自閉症だ。ほんとに世間という所は住みにくい。そういや、故郷にも帰らないし、学生時代の友人や昔遊んだ仲間とも会わない。過去や世間のしがらみ捨てまくっている。ま、しょうがない、他人や世間と闘ったり気兼ねしたりして付き合って短い生涯を無駄にはしたくない。でも、ほんとのところ世間というものが既成概念で閉じて狭いのだ。だからだろうか、反作用で内面は大自然に吸い込まれつまらん思考の壁がどんどん消え空間が広がっている。その影響が自然と作品の表情にあらわれる。はっきり大自然に身を任せれば心なごむ作品ができるわけだ‥
ところで、空間と同時に時間も広がり何百年と生きるような気がするんだけど‥気のせいかな?


9月22日 (水)  [984] 枯れ葉

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 はれ。
気分よく庭で昨日の続きの『まことの福祉』の台をブルーに塗っていたら、いきなり!「桜の枯れ葉がうちに散って、あたしャ仕事で疲れて帰ってきて掃除するの嫌だから、あんたが掃除して」だってよ。ガッビーン!!唖然、どっかで見たなこの人、あっ!漫☆画太郎のババァゾーン。血液がもうスピードで体内を巡る。側頭部がピキピキ、プチッブチ。なんだ〜この威圧的な口調に態度は?この間のおばちゃんだ(絵日記[954])。人が気分よく青空の下で青空色の絵の具で爽やかな青空を作っているというのに‥。虫の居所でも悪いのか?更年期障害なのか?お仕事中すいませんの一言ぐらい言えないもんかね。マ、一般人には仕事とは見えない。庭でだらだらしていたずら書きして粘土いじってヘラヘラしているようにしか見えないけど、これも仕事じゃ!‥遊んでいるようなもんだけど。いきなり、んな事云われたもんで気が乗らなくなり絵の具も上手くのらない。止め止め。ワシはこう見えてもかなりデリケートなのだ!まったく仕事の邪魔すんな!そんな威圧的な態度で来られて、ハイ分かりました、と聞くわけないよ。ワシャ、あんたに雇われてる者ではない。
ちょいと暫く落ち着いて考えてみる。この気分の悪い原因は、ワシが毎日道を掃除しているからだ。この桜の枯れ葉は私のゴミです、迷惑かけてます、と云っているようなものだ。ワシ、元来、枯れ葉が庭にあろうが道にあろうが気にするタイプではない。どちらかというと自然でいいと感じている。それを、でかい桜の木が自分チにあるものだから、近所の手前、身の回りぐらいは掃除してたのだ‥体裁を気にして真面目ぶって。
あ〜よくない。もう、良い子ぶるの止〜めた。もともとの大自然体でいこう。
枯れ葉は大自然のもの、誰のものでもない。別に危害を加えるわけでもない。秋を思いっきり満喫しようぜ、おばちゃん。


9月21日 (火)  [983] 星

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 暑い、晴れ、あら!雨、さてさて妙な天気じゃ‥
朝、茶室でやる瀬戸展に出そうと思っている作品『まことの福祉』の台を作る。
『まことの福祉』は黒ブチが三毛猫を抱きかかえているもので、粘土20Lの作品。一匹の顔を見るともう一匹の顔が見えない。作品を中心にして見る者が回らなければならない。普段なら、立体作品の楽しみ方としてヒッチコック映画の『目眩』?の一シーンのように風景が徐々に変化していい視覚効果が出て面白いのだが、今度の展示会場は茶室、畳の上だ。人がぐるぐる立って回られたのではうっとうしくてかなわん。それで、逆に作品を回そうと回転台の上に乗せたが、回転台が鉄なので堅い感じで格好悪い。それで桐の箱の中に材木を入れ回転台が下から数ミリ出るだけにして被せれば、それなりにいい。
久しぶりにスライド式電ノコを出す。電源を入れノコ刃を回す。グィ〜ん、あ〜大工だ〜、ここちいい。9cm角の柱をカットするのだが、うちの電ノコは9cmだと厚すぎて伐り残しが出てしまう‥のであったが、なんの気無しにあて木を当てたらスパっと伐れた。今まで、何度もこの工具を使っていてあて木など思いも付かなかったのに、なんで、どこから、あて木の発想が出てきたのだろう?不思議なもんだ。とりあえず高さ11cmの柱を4本カット。桐の箱の中にボンドでつける。そして回転台に被せる。なかなかいい。あとは桐の箱の色・模様だが、何にしようと風呂入っていて思いついた。星空模様がイイかな!この『まことの福祉』の2匹の猫は死んでしまったヨンダイとゆっくり君に似ているのだ。
2匹は星になった‥


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