9月24日 (金)  [986] 愛は永遠

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 雨
昨日死なない気がしたわけは、これは『死』というわけ分からん恐怖のような迷い事のような観念が、どうでもいいとなったから。生きいててもいいや、死んでもいいや。ニコニコ笑って生きて、ニコニコ笑ってあの世にいく。となれば、生も死も昼と夜のちょいと大きなものみたいなものだ。昼や夜に怯え苦しむのもアホらしいだろう。死なないとは生と死の境界もあやふやで生死の比較がない状態だ。これは、『死』に対する諸々の負の思考が消えたということだ。
大体、自殺するやつというのは簡単にいうと生きるのが嫌だから。死の観念に捕われていると生に執着したり、逆に死に執着したりバランスが悪い。そうなると快楽に逃げ食うデブ・やるチンマン・うつ罪人になる。
つまり、生死を二つに分けなければ、ニコニコ平安死なないになる。世の中、陰陽で成り立っていて何事にも反対があり二つに分けられている。だから分けないということが分かりにくい。尚のこと生死を極めにくい、悟りにくい。心理的にはほんとは二つに分断されるなんて事はない。分断しているのは思考という後天的な言葉の蓄積だ。思考は分断して陰陽をせめぎあわせることによって成長するから、挙げ句の果てに戦争を作る。戦争するような国や人は、大抵国が二つに分断していたり、その人の頭が二つに分断していたりする。でも自然というのは一つになりたいというものが自然と働くようにできている。一つになりたい、一体化したい。それが愛だ。つまり、心理的に分断がないところに愛があり、そこには執着するような生も死もない。死がなければ死なないわけだ。愛は永遠だ、とはこのことをいう。これが陰陽ひっくるめた太極なるものだ。ぶっとい極みなわけだ。