もりわじん絵日記 2007. 2
メニューに戻る
2月3日 (土)  [1841] 吉日19

20070203-1.jpg


 FINE
そこで思ったのだが、国外で展覧会をやるという意識は自分が東西や過去未来を混ぜた人になった視点でものを見てるという事だ。これは作家という職業にとって進歩でもある。例えば作品を作っていても今までとは違う視点をプラスして見てる。小さいとこではタイトルを日本語や英語などでも考えてしまう。また、これとはまったく逆に東西を混ぜた視点ではなく東西の視点を省き何にも捕われない無国籍な視点というものもある。これは魅力的だ。その方向で考察すると「自分が人間をやめたところで見たらもっと全体を把握するのではないだろうか」という思いが湧き出る。しかしここは現実に還って、自分はというと日本独自の縁起物招き猫を作って飯を食っている。どう考えても混ぜてゆく方向が自分の運命としてあるように感じる。そこで、超越して東西も人間もやめるけれど、混ぜる。
‥あの世から見る、それも生きて‥


2月2日 (金)  [1840] 吉日18

20070202-1.jpg


 FINE、COLD
頭という上から見たんじゃ下はよく見えない。縁起物は足の裏のようなものだろう。滅多に見る事もない。身体とは頭だけではなく全体だ。足の裏のつぼ押しは科学にとっては研究の対象であるが、まとめる事は困難だろう。料理はきれいに盛り付けられ味覚だけでなく見た目も美しい。しかし、足の裏と同じように、排泄される大便は近代的トイレによって見る事も嗅ぐ事もなくすぐに流される。大便からその身体の具合などがわかるというのに。これらもバラバラによるものだろう。
縁起物である招き猫は曖昧だから科学から無視され、科学は縁起物的世界からはハートがない暖かみのないものと高を括られる。ここに隔絶が起こっては元も子もない。自分は相も変わらずバラバラだ。


2月1日 (木)  [1839] 吉日17

20070201-1.jpg


  VERY FINE
科学は「今の科学の時代にそんなもの馬鹿げている」とか言うように、科学が唯一の神かのように暗黙に信じられている。科学は全てを気にかけ眺め分析する。全てを覆うという意味でバラバラを無くそうという方向にきている。科学は世界を網羅する合理的な知識の最先端なのだ。しかし、ここで問題なのは知識に頼り切った思考というもの。それは人の勘を鈍らせる。出会いとか愛とか危険とか好き嫌いとか生存に必要な動物的な勘、それに楽しさとか喜び、心地よさ、美しさ、悲しみ、慈しみ、侘びしさ、寂しさなどの感性も失いさせてゆく。これらは曖昧で合理的でないからね。巧みな思考がこれらに代わって覆うわけだ。人間は勘を捨てて機械に知識を入れたロボットみたいになるつもりなのだろうか?科学は人の生活を便利にはするが人を救いはしない。核の恐怖なんか新たに作ったりするからね。こういった意味でも知識に頼り過ぎるというのは個人を世界をバラバラにしていることだろう。しかし、この合理的知識は大切だ。


| 1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 6 |
2007/2
SuMoTuWeThFrSa
    123
45678910
11121314151617
18192021222324
25262728   

前月     翌月