もりわじん絵日記 2009. 7
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7月6日 (月)  [2713] 化ける50

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 能の世阿弥の書に『花伝書』というのがある。観客に感動を与える力を「花」にたとえて書いてある。二十代半ばの花は美しいが、それは本当の花ではなく、流行の花に過ぎない。三十代半ばの花は二十代程派手ではなく脇役のようなもので、この花が40代半ばまで続けばまさしくほんとうの花だが、その前にダメならウソだったね。みたいなことが美しい表現で示してある。僕が猫に化けたのが三十代半ばで四十代もうまいこと咲いたままだったから、まあ一応ほんとうの花なんだろうな。招き猫を主役に、僕は名脇役になっただろうか?


7月5日 (日)  [2712] 化ける49

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 作っている赤塚キャラ猫で気付いたのだが、化けるというのは脇役になるということのように思う。まず、僕は猫に化けたわけだが主役は猫であって僕はあくまで主役を引き立てたりちゃかしたり落としたりしている脇役だ。キャットグラファーの板東さんも猫業界を盛り上げる脇役だな、自分では世話役と言ってるし。ここで、問題は世話役にしろ脇役にしろ控えめで謙虚な感じでいいのだが、責任転嫁やいざとなったらヤ〜メタと言っても平気なような立場に思えなくもない。それじゃぁ、控えめというより引き過ぎて前に進むどころか人生をバックしてるようなもんだ。だからこそ、目指すなら名脇役だね。


7月4日 (土)  [2711] 化ける48

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 空海だっけかな? 忘れちまったな。「諸法は無自性空なるも因縁によりて仮有なり」という言葉がある。僕の解釈では、全ては自分なんてのは無く空っぽなんだけどバカで気にしてるもんだからこの世は仮に有るようになっちゃった。大昔にこの言葉を知って感銘を受けたもんで覚えてしまった言葉だ。未だにいい言葉だと思う。


7月3日 (金)  [2710] 化ける47

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 アートは仮のウソを暴く。しかし、明確だと信じ込んでしまった人々は現在を超えたアートに晒されたことがないから、新しいアートを疑う。攻撃の的になったりする。これらのアートが仮のウソを暴くためのものなのか? それともただ単に騙すものなのか? いかがわしいアートや霊感商法なんかもあるから尚更だ。まあ、見る側の感性や知性に委ねているわけで、おおよそ全ての人々を納得するような言葉は無い。頑張ってはいるけど、信じ難いのはそれもこれも仮の世界だからですかね。


7月2日 (木)  [2709] 化ける46

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 この世界ではなにもかもが決定できそうで大木のように賛否が枝分かれして育ってしまい明確にならない。数多い枝など無視して大木の一本の幹が決定でいいと思うのだが、そこが始まりではない地下に繋がりがあるから地上か地下かという選択が生まれまた決定でき難い。幹の下の根っこも地上と同じように枝分かれして絡み合いやはりこちらも明確など入る余地もない。地上も地下も、目に見える世界も目に見えない世界もどこも明確ではない。それでイライラする。だからとりあえずだけど見た目は明確な社会であるように仮にしておく。そのうちその仮の明確を真実と信じ込んでしまう…頑固とか融通がきかないとか意固地な性格が人には備わっているから。


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