9月15日 (月) [2418] 家猫75
設計をやっていて思う。 打ち水というのがある。 風のない時でも、水を撒くと冷気と暖気の差が出て風が自然と作られる。 こういうのってすごい知恵だと思う。 で、北側に床高の玄関をつくる。 玄関の床下には何もない空間を作り、そこから居間やアトリエに向かって通気道を作る。 北の玄関で冷えた空気は暖かい方へと移動するために風が起こる。 風は居間やアトリエを涼しくする。 日本家屋はこういう工夫がいたるところにあった。
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9月14日 (日) [2417] 家猫74
建築の基本はいたずら書きだ。 言った手前、いろいろ眺めてみる。 ガウディなどは蟻塚のようなうねうねしたいたずら書きから粘土細工。 ゲリーなんか、いたずら書きから紙細工。 それから藤森照信の高過庵などは二本足の鳥。 鳥の絵を描けばけっこうみんなああなる。 太い木の一本足ならタダのツリーハウスだし、3本足では鳥でない。 コルビジェのロンシャン礼拝堂は蟹とは言っているが、子供帰りした老人の夢見る巨大チンコマンコが潜んでいる。 絵描きでなくとも誰でも一度はいたずら書きした秘部だ。 四角い建築だって、結局は積み木遊び。 どれもこれも基本は無邪気ないたずら書きの延長。 だからいたずら書きの一部分である積み木遊びだけが建築ではない。 もう一度基本に帰っていたずら書きいっぱい描いてみようぜ。
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9月13日 (土) [2416] 家猫73
賞のことを絵日記に書いていたら、建築ユジ君から、どこそこのコンペでグランプリを取ったと連絡が入った。 ほぉ〜、妙なもんだ。 とにかくおめでたいことだ。 ただ褒めるのも芸がないから年上らしく生意気な説教を書いて返事した。 「賞など取っているやつは巷にたくさんいる。取れないで理屈こねているやつはもっとわんさといる。賞や名声などは、結局その人の周りついた装飾だ。建築は装飾をやめて進化した。それは人とて変わりがない。しかし、そんな身の回りについた飾りを人は喜ぶ。退屈な日常に一時の祭りのような非日常が人々の中に沸々とわき起こる。こういうハレとケは大切だ。君は喜びを人々に与えた。しかし、君はそんな装飾で自分を飾らないように、これから先うまく着こなさなければならないだろう。ここではじめて君は君の無垢な感性を磨き始める。どこにもない誰の真似でもない理屈でもないとっても美しい家を建てればいい。 まずは『家猫』頑張ってくれ」
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9月12日 (金) [2415] 家猫72
その芸術だって無垢ないたずら書きの一部分に過ぎない。 全体とはいたずら書きにある。 いたずら粘土いじりにある、とこうなる。 大人の源は子供で、子供の源は赤ん坊だ。 源が幼稚ないたずら書きなんて、人々は信じない。 才能ある人は子供心満載なのでいたずら書きに気付く。 ある者はこのいたずら書きをすばらしいものに育てようと信じさせようと学歴から知性から並べ立てる。 だからいたずら書きではなくすごいもののように思わせてしまい、本質を見失わせてしまう。 子供心を失ったような利口ぶった理屈屋芸術家や建築家が多くなるのはこのせいだろう。
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9月11日 (木) [2414] 家猫71
大賞などを取る運が舞い込んだのは、風景画、ポスター、お母さんというテーマの枠に捕われなかったとも言える。 他の人が描かないような絵だったからね。 だったら、やっぱし建築という狭い枠にも捕われないことだよね。 世界は広いって。 建築は芸術の部分だ。 部分は全体を語れない。
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