もりわじん絵日記 2009. 8
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8月31日 (月)  [2769] 乳がん

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 病院には女子美大の学生の絵が飾ってあった。たまたま僕のファンにそのようなヒーリングアートのことをやっている方がいたのでふと思い出した。青木女史は乳がんになってそこから乳がんについての間違った情報が罷り通っていることに気付き『生きるための乳がん』という本を出版した。乳がんで思い出したが、知人の奥さんは乳がんを手術し、治療薬に女性ホルモンを抑える薬があり、その副作用でウツになってしまった。話してみたが、人生すべてに後悔ばっかしている。大変そう。
 そこで『てあて』作品は前進し、おっぱいの世話になった男として世界中の麗しき柔らかいもちもちおっぱいを守るべくおっぱいを手当てしている作品をねんどいじいじいじりまくった。


8月30日 (日)  [2768] 虚7

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 ところで虚を衝く衝かれると同じような効果を上げるのがもう一つ見つかった。退院の日、入院三日目の朝、もう一人の上司の方のドクターが回診に来た。このとき、僕は昨日のように虚を衝くのは止め、謙虚に感謝とお世話になったことを伝えた。ドクターの高慢な仮面は昨日の若いドクターに虚を衝いたときと同じように剥がされ満面の笑みになった。謙虚の文字には『虚』が隠されていたことを肌で感じた。謙虚に出会うと人は自分の高慢が満たされる。満たされた高慢はそれ以上の高慢にはならない、満たされているわけだから。『虚を衝く』という行為はスキルが必要で危険も付いて回り快楽があり仲良しにもなれる。『謙虚』はスキルも危険もなくそれ程の快楽もないが、病気が回復したような心地良さがある。‥回復したんだけど。


8月29日 (土)  [2767] 虚6

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 思考が剥がされたのに、ちゃんと考えてこのような考察ができるのは、剥がされた思考というものがエゴっぽい主観というもので、その後に考察観察しているのは客観というものだろう。河を渡ろうとして河岸にいるのがエゴっぽい主観で、河を渡って反対の河岸にいるのが客観。どちらも河の前にいることには違いないし、どちらが前方というわけでもない。しかし、気分的には客観の方が大空のように広く心地良い。


8月28日 (金)  [2766] 虚5

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 思考が剥がされちゃうわけだから、つまりバカになる。このニヤ笑いは半分悔しさだが、思考なんてものは大した事なかったわと本根は楽になったという安堵からくると思う。思考が剥がされるというのが重大なのではなく元々思考などなかった生命の源のようなものが垣間見えるということだ。思考はとりあえずのものと知る。ところでここで虚を衝いた方が利口ぶるという意地悪に陥らなければ虚を衝かれた方と同じ明確なバカになれる。気持ちのいい関係になれるわけだ。


8月27日 (木)  [2765] 虚4

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 虚を衝くで思うのは、虚ろな状態が深部にあって、つまり深部に空っぽがあってその表面に思考を網目のように張り巡らしているのが人間の日常ということだ。網目はそこまで頑丈隙間無いものではなく、けっこう隙間だらけだ。虚を衝かれると、ア!やられたと重いニヤ笑いになるのは覆っていた思考が剥がされるからだ。


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