もりわじん絵日記 2006. 11
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11月30日 (木)  [1776] 無心

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FINE
『死にたくないのに、必ず死なねばならない』とウツ女は嘆く。

そう思うのは心です。ここでは心というのは思考というものね。その心がなくなれば、そう無心になればその矛盾は解ける。解けるとは溶けると一緒。溶けて流れる。大自然の中に溶け込んでいってしまうわけですね。大きなものが抱え吸い込んでくれるわけです。子供の頃の諸問題は両親が抱え吸い込んでくれて安心して眠れたようにね。
無くなるから無心。溶けるから無心になるのか?無心になるから解けるのか?溶けるが先か?無心が先か?ここんとこ少々問題となる。この問題の核心は時間というもの。どっちが先かになるからね。この時間というものが死というものを作る。死は未来にあるように思えるからね。両手をたたいた時の、パン!という音はどっちの手か?っていう課題があるけどそれと同じ。世界の矛盾はすべて同じ所から発している。
考えてわかるものは事務的なことで、本当のことは考えれば考えるほどわからなくなる。多少利口になるか、ややこしくなって病気になるか。しかし、その問いは人を成長させるだろうけどね‥
ま、とにかく、無心、無心。
いつだって答えは宇宙から降っている‥


11月29日 (水)  [1775] 博物館

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 FINE
十一面観音仏像が展示されているというので東京国立博物館にでかける。
ワシ、美術館に行くような優雅で呑気でスノッブな輩ではない。今までに美術館など行った記憶はほんの数回しかない。芸術などの職業に携わっているにも拘わらずだ。でも、この間仏像をテーマに作品100も作った。その時、今展示されている十一面観音像を写真集で見てた。粘土をいじると手が形を理解するので、ただ見るよりはよりよくそのものを理解する。今という時期にこの展示会。タイミングがいいから本物しっかり見てみよう。これも何かの縁だろう。お寺に猫の仏像を納めたばかりだし‥
上野は人でいっぱい。平日ではあるが、天気がいい。公園は紅葉でとてもきれいだ。博物館の門の前には長い列が並び30分ほど待たされる。中は中で混雑そのもの。作品見るにも人をかき分けなければならない。よくまあ、こんなに込むもんだ。みんな仏像などに興味があるのだろうか?
ところで、最近ひっきりなしに屁が出る。季節の変わ目だからだろうか。屁のおかげで身体が屁に押され多少歩くのが楽なくらいだ、なんてね。美術館の中で屁はまずいだろうと思うが我慢できない。照れもなく肛門をゆるめ適当に出す。人が多い方がやりやすい。ざわめきに紛れるからだ。ブーブー屁をこきながら進む。こう人が多いと息の匂いや化粧の匂い足の匂いなどなど、いろんな匂いが混じって、儂の屁でなくても会場は匂っている。ジジババ達はゆるいだろうから屁も漏れているだろう。仏像がある博物館だから静寂な空間だろうと期待はするが、ここは仮にも静寂爽やかとは言い難い。仏像を心置きなくのんびり見るわけにもいかない。さっさと屁をして回り、外へ出る。外は青空が広がりユリノキの紅葉が実に美しい。心が解放される。なかなかの名作もあったが、儂の腕の方も負けず劣らずすばらしいとほくそ笑んでしまった。今の時期に見てよかったわ。儂の作品に感動したファンの方々、まちがいなくいい目してますよ。買ってくれた方はもっとすばらしい。えらい!


11月28日 (火)  [1774] クリスマス

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 RAIN
年賀猫だけでなく、なんかあったな、この季節?で思い出したのがクリスマス。しかし、このクリスマスはイマイチ作品にならない。あまりに普通だから、つまらん。深みがない。などと思い、じゃあ、一個だけ、試しに作ってみるか。で、作ったら、こうしたらもっと面白い、などとけっこうアイデアってのは湧いてくるもんだ。やって初めてやる気という運動が始まる、とはいうけど、本当だ。思いもしなかった作品が出て、出て、出て‥


11月27日 (月)  [1773] 年賀

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 RAIN
年末年始なので、年賀状の立体板を作っていた。贅沢な年賀状だろう。子供の頃、年賀状をよく書いた。その時はもらった人が驚くような絵やデザインをした。今は年賀状など書く気がない。でも、年末年始だし、年賀状ではなく年賀猫(ねんがびょう)で、どうだ!


11月26日 (日)  [1772] からっぽ

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 RAIN
『友人のア君は目の前を自分が歩いているのを見て倒れ救急車で運ばれた。運ばれたのは後ろを歩いていたア君なのか、先を歩いていたア君なのか?』

よく無心になれ、と言う。作品を作っている時やほんとに面白いことやっている時は無我夢中で何も考えていない。あっという間に時間は過ぎている。そうなりたいと願っているし求めている。しかしそうなったらそれがそうだと思い込み、それに捕われてしまう。思い込みのそれに捕われることは本来の目的ではない。無心が目的なのに思い込みのそれに捕われてしまうから無心は遠ざかる。無心は思い込めないところにある。
ところで、人はもともと無心でからっぽなのではないだろうか?そのからっぽなところに観念を入れて、自分があると思い込んでいる。観念自体に実体はない。そういう自分は、からっぽだから粘土いじって形あるものを作っているのかもしれない。そうしているといつの間にか自分があるような気になっていた観念がなくなり、からっぽのままの自分が自分の外と一緒に動き始める。たぶん大いなる役割としてだろう。
後のからっぽは始めにあったからっぽとは違う。同じようではあるのだが、後のからっぽはからっぽが詰まっている。観念の入り込む余地のないからからっぽが詰まっているといえる。
ア君の場合、目の前にいる自分を幻覚のように思っている。知覚は後ろの自分にあるから後ろの自分が本当のように感じる。が、先の自分が本物の自分だ。そこに到達したく後ろの自分は無心でからっぽを願い求める。
倒れた瞬間、ア君は一瞬本物の自分に遇えたのかもしれない。


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