もりわじん絵日記 2007. 4
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4月30日 (月)  [1927] ザグリ7

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 FINE
大学時代、同じ下宿にミュージシャンがいた。なかなか刺激的な人物で、結局彼の影響で就職を止め絵描きになることになったような気がする。できた絵は彼に見せて評してもらうことが楽しかった。猫を見せた時に言われたことが、ずーッと気になる一言になった。
「ザグリとしたのが見たいな」
なかなか超えられない一言だったが、10年以上もかかってやっと超えました。
ついでに、バンさんに言われた「猫神様を超える作品が見たい」も超えた感じです。
なんもかんも超克してゆくのであった。


4月29日 (日)  [1926] ザグリ6

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  FINE
密教に胎蔵界マンダラと金剛界マンダラという図がある。
胎蔵界マンダラを簡単にいうと客体で、仏の世界、宇宙の真理ということ。真理の世界から人間界に語りかけている図だ。僕の作品でいうところの「誕生日」という366個の記号だね。偶然にもうまい具合に誕生日と胎蔵界は結びつく。‥内心この共通点に震えるような驚きを感じた。
金剛界マンダラはというと、主体で、自分が真理の世界に向かう図だ。作品を見る側にとっての「好み」というものだろう。「好み」とは自分の持っている情報や知識に左右される。それで好みを決めているからね。決め込んでしまうのは無知で閉鎖的だ。解放した世界、真理の世界に向かわなきゃね。
金剛とは完全無垢なダイヤモンドのことだ。つまり「ザグリ」のことだろう。
密教では理智不ニという言葉があって胎蔵界マンダラ(理)と金剛界マンダラ(智)はどちらか一方ではダメで、両方の立場が合体した時に完全な悟りがあるという。
今回の自分の作品はそれが合体してると思う。
「誕生日」と「ザグリ」。


4月28日 (土)  [1925] ザグリ5

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 FINE, occasional rain
A「私の好みではないから、あの人は違う」
B「あの人に何度か会っているうちに好きになってしまった」

観客は自分の誕生日を見てから猫の作品に初めて出会う。その猫が自分の好みとは違うかもしれない。でも出会ってしまったのだからそこに自分以外の遠くからの何か不可思議な神秘的なものを感じるのではないだろうか?そこには自分の既成概念を超えた無為自然のものがあると思う。それが最も大切だ。それを示せたらお客さんの既成概念の美醜の二極は崩れる。精神は開かれるだろう。



4月27日 (金)  [1924] ザグリ4

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 FINE
「ザグリ」だが、絵画の世界でいうとキュビスムやフォービスムだ。ニューペインティングなんかもその部分が突出したものだ。ピカソなんかもう自由自在勝手気侭野獣そのもの大胆不敵。立体では円空なんか見事に自由自在飄々としてすばらしい。ピカソは上手いというものから自由になったんだと思う。円空は鎌倉時代の仏像彫刻から自由になったんだろう。やはり上手い彫刻だ。バスキアの作品なんかもザグリッとしてる。彼は人種差別からの自由かな。ウォーホルの作品などはシルクだからザグリ味が出せ難いけど版ズレをすることでザグリ味を出してる。彼はきれいというデザインからの自由だね。こうやって並べてみると、全て美醜という二極を超克している。
そういや、最近の絵日記の絵、ザグリっとしてきてるね。



4月26日 (木)  [1923] ザグリ3

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 FINE
そこで現れたのが「誕生日」だ。「誕生日」があることによって可愛くないや不細工と差別されていたものが可愛いや手が込んでいるという迎合ものと同じ土俵に立つ。差別がなくなるわけだ。それと同時にその地点から無意識、原始の分野もしくは未知の分野、猫神様ではないがやっと神の分野の「ザグリ」が顔を現わしてくる。簡単にいうと「誕生日」があるから粘土は自由自在に楽しく子供のように無垢になっていじれる。「金があるからなんでもできる」なんていうのより自由なんだな。だって子供は本来、金なんかに興味はないからね。金を超えているんだよ。含みながら超えている方が正しいかな。これが昔でいうところの「数奇」というものだろう。この「数奇」が「好き」になったと思う。つまりファイン・アートということだ。


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