5月11日 (月) [2657] 取材
山形の建築雑誌社の回し者の片目のカメラマンが今住んでいる家を撮影しにきた。この家から家猫までを取材するという。同い年なのにこの連休中400キロを自転車で走り回ったと言う。400キロと言えば山形から東京まで、東京から西には名古屋まで、すごい距離だ。僕が東京で自転車を乗っていた頃、世田谷から江ノ島まで行ったことがあり、かなりの自慢話だったのに、上には上なんてもんじゃなく天と地の差だ。まるで適わない。山形に住んだら自転車で遊びにいこうと誘われたが、やなこった。大人になったら、自慢話だけで暮らしていくつもりだったのに一つ自慢話が減ったことが悔しい。
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5月10日 (日) [2656] 家猫展最終日
朝、風呂に入って鼻歌を歌っていてふと幸福感がやってきた。あっ、こんなことかと一人微笑んでしまった。 個展などをやると売るとか売れないとかで心を乱される。売れるとか売れないなどのことで一喜一憂してもつまらないのに、そりゃあ、来る人来る人が作品を購入してくれれば嬉しいことに違いないが、次の個展でそれが続かず反対の結果になったら辛い。そこで思うのだが、この一喜一憂の間によく見えにくい空間というか空気というかそんなものがあって、それがあるから超えて一喜だったり、落ちて一憂だったり、前後なのか上下なのか左右なのかは知らないけども、一喜と一憂の間にあるその見えにくい空気というのはしっかり流れていて、間違いなく滞ることはない。もし滞るならこの世は死んでいる。そう、この世の血液、この世の呼吸のようなところで、その息は僕のしている息と同じで、荒くなれば一喜で、ため息なら一憂なのだろう。ちょっと呼吸を整えることを知ればこの世の息に自分の息が整合する。そして僕はそんな呼吸の作品を間違いなく作っているのだからと強く思ったので、もう一喜一憂する必要はないのだとそう感じた時、幸福感が降ってきたのだ。かといってもう一喜一憂が無くなったわけではなく、今後も一喜一憂するだろうと思うが、幸福感は見えにくい空気なもので、癪に触るが、幸福感だけあって一喜一憂などなくてもいいと思うけど、一喜一憂した時にだけ幸福感を味わい、一喜一憂しなくなった時にはやはり幸福感も見えないし味わえない。
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5月9日 (土) [2655] 家猫展10
やっと雨も上がり、お客さんもどっと押し寄せ、個展が始まった初日の様な賑わいになったが、慣れたせいもあってか、もう明日で個展も終わりのせいなのか、賑やかさが悠長に感じられる。トントンドラムの様な感じではなく、ピアノの弦が弾かれるように滑らかさのある賑やかさなのだ。 この数日の雨で布団などはへこんでいるのが当たり前と思っていたが、ふと歩いて布団を踏んだ時に、こんなにふかふかしているものなんだと気付き嬉しくなった。雨降りに見も心も完全に騙されるところだったわ。
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5月8日 (金) [2654] 家猫展9
今日も雨で、谷中暮しで楽しみにしていた喫茶店でのモーニングもこのところ面白くなくなってしまったのは、雨のせいでもあるが、最も大きな原因は、喫茶店の壁やガラスにケーキセットいくらだの、カレーセットまであり、それが紙に適当に書かれ気のないイラストまで加えられ、ただ貼られていて、ひなびた定食屋のようになってしまったことだ。
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5月7日 (木) [2653] 家猫展8
朝雨は上がったように見えたが、泊まっている画廊の二階の窓から見えるヤマボウシのこれから白くなるだろう薄緑色の花びらが雨で打たれ上下している、また一日雨になりそうだ。
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