5月16日 (水) [1943] 好景気猫
FINE 朝、玄関の戸を開けるとフェンスに絡んだジャスミンの香りが家の中に流れてくる。この香り、僕には猫のしっこに近い匂いなのだ。それもポチ君の。が、ジャスミンティーはうまい。
今日は「誕生日」展の真ん中にどぉ〜んと置くバースディケーキを制作しているタカシ君とこに細かいとこチェックしに出かける。 東京にあるので、アトリエは狭い。 自分が30歳の頃はこれより狭いところでやっていたから、これでも十分広いんだけどね。 でも、もっと広いところでやってもらいたいと思った。 作品がおおらかになるような気がするんだな。 チェックで夜になってしまったが、腕がいいし自分の仕事に責任感も強いので完成が楽しみだ。
このケーキの名前は「好景気猫」で皆さん景気よくなるよう願いの作品だ。
|
5月15日 (火) [1942] 誕生日7
FINE,RAIN LATER 「誕生日」は「宝の箱」でもある。 「誕生日」という箱の中で自由自在にザグリザグリといっぱい遊べ何でも飛び出す。 遊べるだけでなく、多少はお金にもなる。 そうそう、お金も自由にいろんなものが買えて遊べる「宝の箱」であるが、お金は使えば無くなる。 それが心配だ。 ところが、「誕生日」は無くならない。 だから心配もない。 有るものは無くなるが、無いものは無くならない。 だから「誕生日」は「無いもの」だ。 つまり「無」だ。 生命の起源のようなものだ。 人間の知識では未だに全く皆無だからね。 そこからいろんなものは発生した。 だから「誕生日」からもいろんなものが生まれる。 本来無一物中無尽蔵にザグリザグリと…
|
5月14日 (月) [1941] 誕生日6
FINE 「猫」は「家」にはなれないが必要だ。 その中でも「招き猫」は大切だ。 なんてことはないものだけど、僕の職業だからね。 自分の技術や感性にぴたっと合うから、こうやって作品が成長してゆく。 「誕生日」という哲学的考察を表せるよだれかけがあったし、ザグリザグリとバカな子供のように粘土遊びもできる。 利口とバカが共にある。 なんてことはないというのがいいんだ。 たいていの人は何でもないものはつまらないと思う。 それは何でもないものを下(バカ)に見ているからだろう。 だから上(利口)を目指す。 上にはバカにできないものがあると思っている。 本当はそんなことはない。 なぜなら、見る側の主観の問題だからだ。 ものを下に見なければ上はなくなる。 上がなくなれば当然下もなくなる。 上も下もなくなれば心悩ますものもなくなる。 こころすっきりなれば晴れやかに利口とバカ混合の粘土遊びができる。 だから、なんでもない「招き猫」がいいわけだ。
|
5月13日 (日) [1940] 誕生日5
FINE 「誕生日」は「家」のようなものだ。 どこかに旅にでても帰ってくるとうれしい家がある。 粘土いじりはザグリザグリと無邪気に思いもしないところに旅にでる。 でも、「誕生日」に「家」に戻って、ほっと安心する。 「猫」が「家」になるかといえば、なりにくい。 猫は家にはつくというけどね。 自分を明確にできるものは生物ではいけない。 生物ならば人間のままでいい。 生物には死があるが、ものには死がない。 だから「猫」は「家」になれない。 ものは壊れたり無くなったりはするが、「誕生日」という数字は壊れも無くなりもしない。 「誕生日」というのは「自分」でありながら「家」であり無くならない数字である。 無くならないから永遠である。 自分は永遠になる。 永遠であれば何がおころうと気にはしないから朗らかで幸せだ。 ザグリと赤子のように自由奔放に無邪気に暮らせる。
|
5月12日 (土) [1939] 誕生日4
FINE 最近、風呂屋に行くのを減らしている。 なにしろ往復一時間弱車に乗らなければならない。 それで風呂入ってのんびりすると半日つぶれてしまう感じなのだ。 瞑想などするから風呂屋にいるのか宇宙にいるのか、帰るのも忘れてしまう。 たまにうつらっと寝てしまい、夢の中にだって行ってしまう。 自分の居場所を確定させることができない。 このままではただ意識は風に流されてどこまでも… で、家で湯に入って水風呂入ってタオル一枚身につけて庭で瞑想することにした。 車で風呂屋に行ったと思えば、ずいぶんずいぶんのんびりできる。 庭の池からいろんなところに旅もできる… ところで、風呂にしろ瞑想にしろ、意識そのものが自分の居場所を失いどこまでも広がって行ってしまう。 自分がいなくなる。 自分なんていなくなるのが当然なのに、誰もがいると思い込みたいがために、いるはずだ、いなければならない、頑張ってなるべくなら不確かではない自分を構築しようとする。 それが、「誕生日」なんだろう。
|
|
|
|