7月23日 (金)  [929] センス

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晴れ。
展覧会をやっているといろんな人と話す。お客さんだったり、同じような職種の人だったり、ギャラリーの人だったり、知人だったり、痴人だったり‥
話しをしていて、ある瞬間聞くのが語るのが面倒になることがよくある。テレビならチャンネルを変えればすむことだが、生の人間ともなるとそういうわけにはいかない。話しがしつこくなったり辛くなったりする予感が生じた場合は、話しをそらしたり、なんとかその場を取り繕ったりしてかわすのだが、なかなかねぇ〜。それで、人を好きになったり嫌いになったりもする。もともとは、嫌な体験でトラウマや生理的に避けるようになってしまわない限り、好きも嫌いもないような。
わずかな空気の亀裂の観察を怠り、それに気付いているのに内省もしないで突き進む。そのために心は二つに分断して、それが好きと嫌いになるんだと思う。
では観察とは何かというと、観察の観は見る、しっかり見ることで、観自在菩薩のことで自由自在に分け隔てなく自分を勘定に入れないで見ることである。
観察の察は、察するということで、思いやるという意味合いと、自分を押し進めて自己主張し過ぎ出過ぎをセンスでもってハッと気付き空気を察することである。
センスのイイ人ってのはそういう人のことで、観自在菩薩はセンス抜群の人だ。
よく、空気を読めない人、なんていうのは自由自在からほど遠い不自由人だ。
その観察がないと、亀裂が大きくなり好き嫌いという二つにブッチッと切れてしまい、どうもこうもできなくなる。
この空気、空間を分断し、狭い世界に分けて、分けて細かくしちゃって‥
そんな狭い世界が窮屈で、親や夫や妻や子供や友達や世間に頼り甘える。このせまっ苦しい分断はいけないと感じ、またまた頑固に自分の力で世界を直そうとあいも変わらずよく見ることも察することも観自在菩薩を理解することもしないで、自己の下らん長話や自慢話や屁理屈で他人を閉じ込め囲おうとする。
それではいつまでたっても所詮狭い檻の中ではないだろうか?
家の壁や水道管などの僅かな亀裂をよく観察しないで無視したりしたら家がめちゃめちゃになってしまうのと同じ、われらは空気という家に住んでいるんだからね。
大切なのは亀裂を見抜くセンスですよ‥これを愛というのでは?愛は一体だから。