3月22日 (月)  [825] 大自然の風

20040322-1.jpg

雪じゃん!
昨日は20kgの粘土ですごい作品をいじった。
最近の猫共の春真っ盛り環境にどっぷり浸かったから、本当の作家になったみたいだ。
初めて猫こそ教師と感じた。
自然というのはなんだろう?と考え、それは頭つまり頭脳で作ったものではないもの。
こんなのは当り前なことで、人間だって自然の産物だが、頭はそれに対立する。
歳とることを嫌い若作りをしようとするなんてのは対立のいい例だ。
自然と戦うことで歪みが生じてくる。
これが苦しみや不満というものになる。
ますます、若作りに励むが、寄る年波には勝てないから負ける一方で、悔しくて悔しくて心がすさむ。
飼い猫は人といるから自然ではないだろうと多少疑問があるだろう。
しかし、別に鎖に繋がれることもなくオリにも入れられることもなく苦しみも不満もなく普通に暮らしている。
意志とは関係なく去勢や避妊をされたりするが、しょうがないこんな世の中だもの、昔の事故だ、気にしなければたいしたことではない‥別に金玉なくたってSEXはできるもん。
猫観察して気付いたのだが、巷のどんな立派なアーティストや政治家にしたって魅力的な自然体や何にも捕われない自由という点では猫にかなり劣る。
そりゃぁバカな畜生だからというだろうが、いやいや、見た目や頭脳ではなく、精神が分裂しないようにバランス取れているということ‥
本当に猫から学んだこの作品、大都会に大自然の風を吹かせることはできるだろうか?
そこが問題ですね。
っていうのは、今度の個展会場だが、大都会東京銀座のデパート。
デパートという空間で生猫が売られることはあるが、猫の春はないだろう?
都会とは自然を排除することによって成り立つから、都市では自然というのは汚い、醜い、教育上悪い、下品となりやすい。
だから自然をがんじがらめにして管理し、いいとこだけを満喫しようとする。
しかし、アートというのは、そういった現代の迷信のような考えに、ウソだろ!と裸の王様にでてくる子供のような感性で歪みを訂正することだ。
都会に必要なのは大自然の風だ。
さあ吹くだろうかね‥