12月7日 (火)  [1058] 合の子

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 Fine
英会話を聞いていて感じるのだが、日本語と英語の文法が逆になったのも環境のせいだろうか?英語人は環境がきびしいからうだうだ長ったらしい話しはしてられない。まずは、私は思うよ、と自分の考えを早めにいう。動詞がいきなりくるわけだ。そうでもしないと、アッ!という間にハリケーンに吹き飛ばされる。
反対に日本語人は風景の事なんかを中心にどっぷり浸かり自分の思うことなどは最後に言う。風景一番だから自分という主語なんかどうでもいい。
そういや、ノコギリの使い方でも英語人は押して伐るのに日本語人は引いて伐る。英語人は、やはり環境きびしいから押し進んで早く伐らないと、またしてもハリケーンが、アァー。日本語人は押し進めたら良い風景を見逃してしまうから進まず引いて伐る。日本にも台風とか地震などのきびしい環境はあるが、そんなのがあってもすぐになにもなかったように良い環境に戻る。ってなことかな?
しかし、このような分断は、環境だけの問題では無さそうだ‥
人間には男と女がいるように、なんでも二つになるのは、思考にイエスとノーの二つが必ずあるからではなかろうか?どっちかに絞ってしまうとおかしいことになってしまう。思考によって、一つにまとめようなんてこと事体が不可能なことなのかも。およそ、この世のことは、些々なくせして自分勝手な人間の思考には解き明かせるわけがない。
それでも、イエスとノーが一体化することはある、思考以外でなら‥。ア〜そうそう、合の子、混血、ハーフ、ダブル。‥オカマ?