2月15日 (土)  [458] 天の目

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いい天気だ。
紅梅も白梅も花が咲き始め、前に咲いた黄色のロー梅もあるので、梅梅梅で心地よい‥咲いているのは数える程しかないけどね。
今日は断食しようと、昨日の夕飯は軽くとった。
さあ、一日メシの心配はない、いっぱいいっぱいの時間だー
さて、まずは窓を全開にし和室の座布団やら布やらを外に出し天日干しにする。
お腹と同様に部屋もからっぽにしたら、風が入り鉄の風鈴がチンチリリーンとなって心地よい。
壊れているイスを、この間剪定した百日紅の枝で補強する。
ロー梅の花がデッキから見え難いので植え替えをする。
あとは、ばんばん粘土いじり。
…断食というものは、精神と肉体を自由に解放してくれる。
人はだれでも平等に自由で軽やかに楽しんで平和であるはずが、だれもがなぜか何かに苦しんでいる。
苦しいのは、頭が知識の取り過ぎで身体が食べ物の取り過ぎだからでは?
ほんとは自由で空に浮く程楽しいのに、余計なもの詰め込んで頭も身体も重くて身軽でなくなり不自由になっている。
その不自由の原因は、他所の人や考えや国にあるのではなく、自分にあることを知らねばならないのでは?
人の身体は大きい意味で食べ物や空気を摂取して出来ている。
食べ物が身体の中にいつまでもたまっていたのでは、固く重くなる。
固く重くなると、本来軽やかだった本性は、軽やかな自由を求めるようになる。
詰まった脳は、軽やかな自由をどうやって手に入れるかを考える。
詰まった脳で考えられた自由とは、なんでも食べれる、なんでも自分のもの、争ってでも殺してでも手に入れるという貪欲であって、それは真の自由とは程遠い。
なぜなら、詰まった重い脳には軽やかさは夢幻であり理解できないからだ。
これではいつまで経っても、空も海も軽やかに遊ぶ子供心は絵空事である。
子供の頃は何も持ってなかった‥年とともに知識や食べ物のカスが身体にたまり、思考が重く暗く淀み、懐かしき軽やかさを求め、偽りの快楽に何度も出合うが、満たされず、彷徨う。
さあ、持ってきた荷物をひとつずつ下ろし、軽やかに頂きに歩もう。
そこからはまるまる地球が見える‥天の目を持ったかのように。