11月11日 (月)  [366] カエル石

20021111-1.jpg

昼過ぎ、陽のあるうちにイギリス式ガーデンを中心にした庭作りを仕事にしているガーデナー'Sがやって来た。
庭を見ながら、持って来てくれた佐渡の柿を食いながらお茶などして庭についていろいろ話す。
それにしても、この柿すごく甘い、表面の色も鮮やか、なる程、ちゃんとした柿とはこんなに立派だったのか‥そりゃそうだ、ワシんちのさくらんぼだって、一度食べたら、あまりの甘さにこれがホントのさくらんぼか?ーとみなさん唸るもんね。
庭においてある傘地蔵猫や穴のあいた石に入っているカエルが気になる。
一般的に庭に置く置き物などは大量生産ものばかりだからね。
それなら、これは?と、あきれカエルにでんぐりガエルを見せる。
あら!かわいい。
このちっこいカエル君らを石代わりに置いたらどうだろう?
レンガを積み重ねたまん中から水が出て、下には緑色のカエルが敷き詰めてある。
奥様達が、お日様の下、紅茶とクッキーでおしゃべりなんかして‥
まア〜きれいな緑色の石だこと‥
それで、ちょっと水場にいって、よくよく石見たら‥ドッカーン。
カエルだらけ‥それもでんぐりかえっている。
アララ!あきれかえっている。
あ〜いいな〜
そんな庭作るっていうんだったら、ワシ、一生懸命カエル作るだろうな〜
笑いながら‥きれる話しをする。
…人は悪意もない些細なことできれたりカチンときたりする。
大抵自分の自分像に対して違うこと言われた時‥
自分像とは単なるイメージで実体のない幽霊です。
実体もない過去の言葉で作られたイメージを、そんなにかたくなに守るのはなぜだろう?
どこかのだれかさんが何言われようと平気なのに、自分の身内や当の自分にそれがきたら、待ち構えていたかのように感情むき出しのケモノとなる。
自分の作品になんか言われたら感情むき出しになるようなものだ。
そんなに作品を過保護にしたら作品は骨董ものになって未知への可能性を閉ざしてしまうだろう。
自分とは、単なるとってもみじかな他人です。
きれて、怒って、感情の虜になって、ケモノになって、幽霊大事にして、閉じこもって、抱いて、私可哀想、自己愛‥そんなの愛ではない。
愛とは未知へ向かう勇気ある創造です。